御由緒

御祭神

主祭神

(しゅさいじん)

罔象女大神みつはのめのおおかみ 

生命の源である水をつかさどる女神様

相殿神

埴山姫大神はにやまひめのおおかみ  

土木工事や土すべてをつかさどる女神様


句句廼馳大神くくのちのおおかみ 

樹木をつかさどる神様


軻遇突知大神かぐつちのおおかみ 

火をつかさどる神様


金山彦大神かなやまひこのおおかみ 

金属をつかさどる神様


倉稲魂大神うかのみたまのおおかみ  

お稲荷さんと親しまれている商売繁盛の神様


素戔嗚尊すさのをのみこと     

やまたのおろちを退治した厄難除けの神様


菅原道真公すがわらのみちざねこう   

秀才であったことから栄進出世・学問の神様


誉田別大神ほんだわけのおおかみ   

八幡大神ともいわれている国家鎮護の神様


蛟蝄神社の歴史

蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様、罔象女大神を祀ったのが始まりといわれております。詳しい年代はわかっておりませんが社殿を東の高台(奥の宮)に建てました。
明治42年(1909年)に立木地区にお祀りしていた「稲荷神社」「八坂神社」「天神社」「八幡神社」を合祀し、なお一層の御神徳をもって下総國相馬の郷を見守っておられます。


「立木」「文間」地名の由来

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(とうせい)のため、蛟蝄神社で祈願をしたという言い伝えがあります。そのとき文馬(かざりうま=綺麗に装飾した馬)を木に繋いだことから当社が鎮座している地区を「立木(たつぎ)」(たづなをきにつなぐ→たづなぎ→たつぎ)この地域を「文間(もんま)」(文馬→文間)と呼ぶようになり、氏子の皆さんは蛟蝄神社に親しみを込めて「文間両社明神(もんまりょうしゃみょうじん)」と呼んでおります。


下総國相馬郡とは

下総國相馬は利根町・取手市(高須・大留・押切・神浦除く)・守谷市・龍ケ崎市の一部(北方町・長沖町・長沖新田町・羽黒町・須藤堀町・川原代町)・つくばみらい市の一部(小絹)・常総市の一部(坂手町・菅生町・大塚戸町・内守谷町・内守谷町きぬの里)・我孫子市・柏市の一部(沼南・根戸・宿連寺・布施・布施下・弁天下・布施新町1丁目~3丁目)の地域です。


蛟蝄神社の分社

蛟蝄神社は、御祭神の御霊を分祀したお社があります。

取手市和田 蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)

  • 鎮座地 取手市和田1485番地 鎮座
  • 御祭神 罔象女大神(みつはのめのおおかみ)軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ)
  • 相殿神 菅原道真公
  • 創 建 1574年(天正2年)
  • 由 緒 1574年に和田民部が家臣18名を連れて和田を訪れました。土地の大半が沼地であったため和田氏の氏神、立木蛟蝄神社の罔象女大神を分祀して祀ったのが始まりといわれております。朝夕開拓に励み、和田民部は相馬2万石の代官役になりました。1861年(文久元年)に和田氏の氏神を村の鎮守としてお祀りすることを申請して代官が快諾し、9月19日に大祭りを行いました。

龍ケ崎市須藤堀町 須間神社(すまじんじゃ)

  • 鎮座地 龍ケ崎市須藤堀町1544番地 鎮座
  • 御祭神 埴山姫大神(はにやまひめのおおかみ) 須藤刑部(すどうけいぶ)
  • 創 建 1684年(貞享元年)
  • 由 緒 蛟蝄神社の埴山姫大神を分祀して貞享元年12月吉日に祀りました。また一説によると、須間神社の御祭神は、初め須藤堀開拓の恩人、須藤刑部であったと言われております。昔、この地を訪れた須藤刑部は低湿地に堀を作り開拓に成功いたしました。この功績にちなんでこの地を須藤堀と改め、刑部を鎮守神として祀ったのが須間神社であったという記録も残っております。

延喜式内社とは

延喜式(えんぎしき)「全50巻」(927年)の書物の中の9巻と10巻の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にはその当時、特に重要な2861社の神社と3132座の神様が記されております。下総國には11社の式内社があり当社は「下総國相馬郡一座小社蛟蝄神社(しもうさのくにそうまこおりいちざしょうしゃみつちじんじゃ)」と記されています。

[下総國の延喜式内社]
地域(郡)神社名称鎮座地
下総國香取郡香取神宮(かとりじんぐう)千葉県香取市香取1697
下総國千葉郡寒川神社(さむかわじんじゃ)千葉県千葉市中央区寒川町1-123
下総國千葉郡蘇賀比咩神社(そがひめじんじゃ)千葉県千葉市中央区蘇我2-2-7
下総國匝瑳郡老尾神社(おいおじんじゃ)千葉県匝瑳市生尾75
下総國印旛郡麻賀多神社(まかたじんじゃ)千葉県成田市船形834
千葉県成田市台方1
下総國結城郡高椅神社(たかはしじんじゃ)栃木県小山市高椅702
下総國結城郡健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)茨城県結城市結城195
下総國岡田郡桑原神社(くわはらじんじゃ)茨城県常総市国生1186
下総國葛飾郡茂呂神社(もろじんじゃ)千葉県流山市三輪野山619
下総國葛飾郡意富比神社(おおひじんじゃ)
通称 船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)
千葉県船橋市宮本町5-2-1
下総國相馬郡蛟蝄神社(みつちじんじゃ)
通称 蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)
茨城県北相馬郡利根町立木882(奥の宮)

※延喜式神名帳参照

蛟蝄神社のおはなし

明神様のご利益

明治の末ごろのこと。大房(立木の東)のある家のおばあさんが夜中になっても帰らず大騒ぎになりました。
村中で探しましたが見つからずとうとう夜が明けてしまいました。朝になって村人たちが立木の明神様(蛟蝄神社)に来てみると、深い井戸の中でガバガバと音がしています。もしやというので井戸の底へ声をかけてみると、これがそのおばあさんでした。「よくまあ、こんな深い井戸に落ちて助かったものよ」と人びとがいうと、おばあさんは、「白いひげをはやしたおじいさんに抱かれて井戸の中に落ち込んだから、ほれ、このとおり、ひとつもけがをしていない」。人びとは、その白いひげのおじいさんこそ、明神様であったろうと話し合い、いまさらながら明神様のご利益のあらたかさに感じ入ったといいます。その後、深井戸は危険ということで埋められてしまいました。この井戸は、鳥居をくぐって、本殿へいく途中の中ごろ、参道の西側の、やぶの近くにあったということです。(『利根町史』大房・関口秀明談)


笠脱沼(笠貫沼)とみのかけ榎

むかし、大田羅(だいだら)の神がこの地においでになり、笠をぬいで、しばらく休憩されました。ところが、その笠の重みで凹みができ、そこに水がたまって、大きな沼になってしまいました。そこで、土地の人びとは、この沼のことを笠脱沼(かさぬきぬま:笠貫沼とも書く)と呼びました。また、そのとき、大田羅の神は、近くにあった榎の木に蓑を脱いで掛けられました。その木のことを蓑掛け榎と呼んでいます。(『北相馬郡志』より)


明神の絵馬

立木村はたいへんなさわぎ。夜になるとどこからか馬がやってきて、稲を食べてしまうというのです。ある雨の日、この雨ではと田の番をとりやめたのですが、翌朝、よほど馬は腹がへっていたとみえて、いつもより広々とした場所の稲が食べられてしまいました。あるひとりが、馬の足あとを見つけ、みんなでたどっていくと、門の宮で消えています。「おい、いたぞ」。その男の指さしたほうをみて、みんなは大笑い。それは絵に描かれた馬だったのです。しかし、よく見ると、馬の口にわらくずがついていたり、4 本の足にどろもついています。いままで笑っていた人たちも真剣な顔に。「そういえば、この馬の絵はえらい絵描きさんが描いたというではないか」「そうよ、いまをときめく、狩野元信という名人が描いたものよ」。あるひとりが、「この馬には、たづながついていない。だから歩き出す。狩野さまにお願いして、たづなをつけていただいたら」。
そこで、名主の市兵衛が代表となって、京の都に行き、狩野元信の家をたずねました。ところが、なんと元信は市兵衛がここにくることやその用件まであらかじめ知っていたというのです。「実は、おまえさんの村へ行ったとき馬の絵を描いたが、わざと馬にたづなをつけなかった」といいます。元信は「わたしはあの馬の絵に一生をかけるつもりでした。もしあの絵が、たづなもついていないのに、馬がどこへも出歩かないようだったら、わたしは絵を描くことをあきらめようと。だから、あなたがいつきてくれるのか、毎日毎日待っていたのです」。
元信の眼からは、涙が止めどもなく流れるのでした。元信にたづなをつけられた馬の絵は、その後、2 度と稲を食べに出歩くことはなくなりました。そして、今もまだ、ジッとして門の宮の中にいるのです。(『利根町の昔ばなし』高塚馨著/崙書房刊より抜粋引用)